梅田さんがCNETのブログに書いた”僕も参考にしたEDVentureをCNETが買収” に詳しく企画・運営会社のことが書いてあります。NILSもPC Forum がモデルとなっています。モデルにしたといっても、梅田さんの隅々まで研究したわけではなく、あまり深く考えず、宮崎シーガイアでみんなで集まったら面白いね! という発想からスタートしました。実は企画したときはPCフォーラムなんて私は知らなかった(笑)。 いっしょに企画していた当時CNETの編集長だった山岸君 や NILSに参加していたネットエイジ小池さんがPCフォーラムみたいということを言っていて、興味を持った。 そして、今回 私 はPCフォーラムに参加しよう と思うようになった。
梅田さんが、ADL時代にやっていた、ADLのフォーラムは、私は内定者時代から欠かさず参加していた。その時、梅田さんの話を聞いていた。入社してからは、フォーラムのコンテンツも書いたりしていました。 梅田さんは日本ではPCフォーラムのような30-40万円とるビジネスは成り立たないという指摘があり、まさにおっしゃる通りです。 NILSの場合は1泊2日 宿泊費以外の経営者の参加費は約5万円です。スピーカーは無料。スポンサー枠は約25万円です。
スタッフは専属スタッフはいなく、企画メンバーを含めボランティア。つまり、固定費ゼロ
です。 現在、固定費がないので、NILSはしっかり利益がでるようになり、いろいろな
イベントを企画できるようになりました。
梅田さんが、フォーラムを通じて、ネットワーキングが広がった とありますが、私も同じで、NILSを通じて、ネットワークが広がりました。NILS単体で稼ぐという意識ではなく、業界のインフラやプラットフォームをみんなで作っていこう、そして良いものにしていこうという考えのもと運営していこうと思っています。 PC ForumのPCは Platform for Communication の略です。 ADL時代のITフォーラムみたいなものもやっていきたいな と思います。 コンテンツ化していくというところをしっかり行うという点が重要。CNETさんだったり、 古巣のADLとか とかいっしょに出来たらら面白いなと思います。
(以下、梅田さんのブログから引用)
多くのコンサルタントが「産業に特化したコンサルタント」になるのを嫌がる中、僕は皆と違って、「シリコンバレー、コンピュータ産業」という切り口 に特化した仕事を、できるものなら続けていきたいと考えていた。それで、アメリカでさまざまなものを観察する中で、自分の将来のロールモデルとして見出し たのが、このEsther DysonがやっていたEDVenture Holdingsという会社と、Regis McKennaがやっていたハイテク産業に特化したブティック・コンサルティング会社だった。
だから、このEDVenture Holdingsの事業というのは、当時、隅から隅まで、穴があくほど勉強した。だってものすごい儲かり方をしている会社で、気になって気になって仕方な かったからだ。もちろんベンチャー・ビジネスではなくてスモールビジネスだったけれど。
当時は、ニュースレターの年間購読料が500ドル。フォーラム参加費が2500ドルくらいだったと記憶している。ニュースレター発行部数5000部 で250万ドル。フォーラムには500人は参加していたから、それ一発で125万ドル。ざっくりいえば、売り上げ数億円規模の、固定費構造のものすごく小 さくてすむ、1人ビジネスに限りなく近いスモールビジネスが、目の前に存在していたからだった。
実は、当時のADL日本法人も、ADL全体も、コンピュータ産業プラクティスはあんまり強くなかった。だから、サンフランシスコから日本に帰った 後、コンピュータ産業に特化したコンサルティングをやるためには、自分でプラクティスを立ち上げなければならない。どうしようかとサンフランシスコでいつ も考えていたのだが、そのヒントになったのが、このEsther Dysonのビジネスモデルだった。
日本流にビジネスモデルをアレンジ
しかし、同じビジネスモデルを日本に持ってくることは絶対に無理であった。なぜなら、日本は大企業中心のコンピュータ産業で、しかも個人という概念 がないから、いくらいいニュースレターを5万円か10万円で発行しても、会社のある部門が買って、社内で全部コピーして回覧されてしまう。特にページ数の 少ないニュースレターは、すぐコピーできちゃうので、きつい。アメリカの場合は産業全体がベンチャー中心で、しかも人が動くから、個人を単位としたニュー スレター事業が成立するけれど、日本ではダメだ。またEsther Dysonのフォーラムも、2泊3日、リゾート地でやって宿泊費以外で30万円取るわけだが、これも日本では無理。
そこで、帰国してすぐ、1993年に立ち上げた「ADL情報電子産業フォーラム」という新事業では、次のようにビジネスモデルを日本流にアレンジした。
「フォーラムは年1回ではなくて毎月1回、3時間、都内のホテルで開催。ニュースレター形式で送付するのではなくて、毎月、コンピュータ産業の最先 端で何が起こっているか、日本企業にとってのその意味についての報告書を用意して、その報告会をフェース・トゥ・フェースで行なうという形にする。参加費 用は1社年間200万円。その200万円で会員企業になれば席を2席確保。3席目以降は1社50万円追加。毎月、その会社から同じ人が参加してもいいし、 違う部門の人が参加してもいい。3カ月に1回は、参加企業のメンバーの人達との懇親会と、役員クラスの人を対象とした朝食会を開催する」というものだっ た。詳しくは説明しないが、日本企業がどういうタイプのカネなら気前よく支払い、どういうタイプのカネならびた一文出さないかを、考え抜いたモデルで、こ れがうまく当たった。ものすごい量の営業活動は、もちろんしましたけれど。
そして最盛期はこの事業だけで売り上げ1億円を超えたが、もっと良かったのは、このフォーラム事業をやっていることが、そのまま大型コンサルティン グ・プロジェクトのセールス活動にもつながったこと。またそれと同時に、日本企業の中核をなす人達との強いネットワーキングができたことだった。この フォーラムは1993年から、僕がADLを退社して独立する1997年まで続けたのだが、会員となった日本企業からの参加者は40代の部長クラス、役員に なったばかりの50代前半の人たち。性格的に共通するのは、世界の動きに敏感で(ドメスティック営業系ではなく国際派、アメリカ派)、自社の現状に強い危 機感を抱いている人達ばかりだった。そういうタイプの50代前半の人たちが、90年代後半に日本企業が苦境に陥るに伴い、その再建のために皆、副社長、社 長へと引き立てられていき、そういうタイプの40代の人たちが皆、役員になっていった。