梅田さんの「ウェブ時代をよく」をいまさらですが、地元の本屋で買ってみて、すこしづづ読んでいる。 ロールモデルのところで、梅田さんのコンサルタントとしてのモデルが、エスター・ダイソン氏のPC Forum や ニュースレタービジネスで、それがADL時代の情報電子産業フォーラムにつながった ということだった。
ADLに1998年新卒で入社することになった私は、大学4年生のとき(内定時代)にこの梅田さんが担当していた情報電子産業フォーラムに参加していた。 日本の大手企業の幹部の方や経営企画など経営の中枢を担うだろうという方が参加していた。Microsoft と Netscape の争い などホットなテーマを扱っていた。 私にとって貴重な経験だった。 梅田さんは1997年5月?に独立。内定したとき梅田さんといっしょというのは良いなーと思っていったが、友人が購読したいたフォーサイトに独立って書いてあったよということを聞いて大変ショックだったことを覚えている。
New Industry Leaders Summit (NILS) や 現在のInfinity Ventures Summit は元のアイデアはPC Forum だった。 リゾートに2泊とか缶詰で産業の将来などを議論する場である。
梅田さんが情報電子産業フォーラムで得た人脈 や コンサルティングの仕事というのは私のとっても同じで、独立後はコンサルティングの仕事(Admob)も依頼があったが、投資案件の発掘などにもつながっている。
私が独立しようと思ったのは、NILSのおかげだ。NILSによって様々な人と出会ったことが最大の財産だ。
さてに次に面白いのは、梅田さんはKPCBのジョン・ドーアの若い頃をロールモデルとしうに若い人を発掘する・会うということをすると決めたときに、上記に登場する当時CNETの山岸さんに日本にいったときに若い人とのあっていくということをしている。 私も山岸さんに声をかけれた一人で、2004年の11月ことだった。はてな で行われた勉強会に参加。第一回NILSの開催の前日である。 グリーの田中さんははじめて出会った。梅田さんとも「再会」した。もちろん、梅田さんは私が学生時代に会ったことは記憶にない。当然だ。当時はただの学生だった。
私は大学時代にいろいろとビジネス雑誌を読んでいたのですが、シリコンバレー、ITブームがよく特集になっていた。KPCBのジョン・ドーアはよく登場していて、私がベンチャーキャピタリストを目指すうえでの「ロールモデル」となった。
いろいろとジョン・ドーアに関してはいろいろとキャリアを調べたものだ。かれは1974年のインテルのエンジニアとして入社した。KPCBの入社したは1980年だ。 詳しくは彼のDone Deals の特集を見るとよい。
私が大学3年生(1996年)のことろはジョン・ドーア氏は有名であった。彼は別の自分自身で起業してCEOになったという経験がない。ビジネススクールは卒業していたが、インテルの数年のキャリアでKPCB に転進(アソシエイト)だ。 私のジョン・ドーア氏以外のロール・モデルはAccel Partners のジム・ブレイヤー氏であるが、彼も若くしてベンチャーキャピタルファームに入って現在に至る。
よく起業経験がないとかビジネス経験がないベンチャーキャピタリストは駄目だ とか叩かれることが多く、だだいた、若いときに「ベンチャーキャピタリスト」になりたいんですといっても、だいたいビジネスと技術の経験がしっかりないとできないとか諭された終わった。
ジョン・ドーア氏はインテル時代はField Engineerだったではないか? すでに3000人もいる大きな企業だ。結局、何をしていたが関係ない。ベンチャーキャピタリストになって何をするかだと思っていた。 若くして起業して成功する人もいるではないか と思っていた。
The summer of 1974 was pivotal in my career. Intel was a promising, well-managed, $130 million revenue company with 3,000 employees. They had just introduced the 8080 chip, the first 8-bit microprocessor.
That summer Andy Grove taught new employees the first course on "Intel's Organization Philosophy and Economics" (iOPEC). Andy's management genius and personal commitment to education were evident even then. By summer's end Andy and I had trained Intel's sales' force in the U.S. and Europe. Our benchmarks showed the superiority of Intel's 8080 processor versus Motorola's 6800. And even more fun, we won major design contracts selling major customers like Siemens and ICL. I promptly forgot about venture capital and decided to build a career at Intel.
I returned to grad school to finish a degree in business and continued working twenty hours a week for Intel as the field engineer assigned to DEC. We dragged DEC kicking and screaming into the brave new world of microprocessors. DEC's engineers were skeptical of computers on a chip, but that's another story.
After business school my next job was at Intel's factory "headquarters," working first with engineering and then product marketing. However, my friend and marketing manager, Jim Lally, advised me that if I someday wanted to be a successful marketing or general manager, I'd better learn how to sell and how to motivate a field sales force. He told me to "get out into the field, and carry a bag!"
So I transferred to Intel's Chicago sales office and had a blast, calling on small accounts in farming and industrial communities. It was the one of the best and most educational of jobs: solve a problem, get an order. Then I was called back to Intel's factory to be a marketing manager, still working with microprocessors, software, and people.
実際に私の場合、工学部であったが、ほとんど勉強していなかったため、エンジニアになっても駄目だと感じていた。 ジム・ブレイヤー氏のキャリアはマッキンゼーのコンサルタントということもあったので、コンサルティング会社におって経験をつもうということを考えた。
情報通信産業に強いところにいこう。それがADLだった。1998年ADLに入社2001年6月に当時のエイパックス・グロービス・パートナーズ(AGP)に入社した。
ジョン・ドーア氏が1980年のKPCBに参画したときは以下のような感じだったそうだ。
Kleiner Perkins Caufield & Byers: 1980
In 1980 a friend introduced me to Kleiner Perkins. They wanted a gofer to help check out new business plans. I was still interested in someday starting a venture, but I wasn't so sure about venture capital. During my interview, the KP partners - Eugene, Tom, Frank, and Brook - promised that if I worked for them, they would someday back me in starting a new venture. They pointed to their success backing Bob Swanson, an associate who incubated Genentech, and Jim Treybig, who incubated Tandem Computers.
Kleiner Perkins offered me a job and within the first year I was fortunate to meet two professors at the 1981 Cal Tech VLSI Conference: Carver Mead from Cal Tech, and Jim Clark from Stanford. Carver and Jim would later play key roles in ventures that KP backed.
Carver Mead told us about his research into new tools for chip design. He called it "silicon compilation." True to their word, the KP partners backed Carver and me in co-founding a new venture, Silicon Compilers. After eighteen months we recruited a more qualified CEO from Intel, Phil Kaufman. Later, Silicon Compilers merged with Silicon Design Labs, and in 1991 Mentor Graphics acquired Silicon Compilers for $142 million.
Meanwhile, Jim Clark was developing his geometry engine, which led to Silicon Graphics. Jim later worked with KP in building great companies like Netscape, Healtheon, and currently myCFO.
Throughout the 1980s, the microprocessor was the common denominator - the base technology - for successful KP ventures, from Compaq to Lotus, and from Sun Microsystems to AOL. None of these new digital, personal computing, information, or network products would have been possible without the microchip.
ジョン・ドーア氏はその後はコンパックとか、サンマイクロシステムズ、ネットスケープ、アマゾンなどご存知の会社の支援することになる。
私の場合もロールモデル思考法だ。大学生のときから、ジョン・ドーア とか言っていたと思うので、当時にしたら相当 変人だったと思う。 Accel のジム もロールモデル。
ネットワークやコミュニティをしっかり形成されているのがシリコンバレーの特徴とすると、NILS そして、IVS はコミュニティを形成する場である。このコミュニティというかネットワーク と 上記のKPCB のジョン・ドーアとかビノット・コスラとかのような人材が集まるファームがあれば産業を創造することができるのではいか?
というのが独立後の構想である。 ベンチャーキャピタルファームは一人やろうと思ってはいなかった。自分にあるのは情熱とか実行力そのものであり、 別に起業して成功したとかの実績はない。 別の経営などの経験がなくてもベンチャーキャピタリストにはなれるが、当然ながらそういった経験も重要だ。 自分にないなら、チームとして持つべきだ。 起業家のとって価値のあるチームを作ることが一番重要。
いろいろなことを思い出したり、考えたりしました。